映画

バブル時代を体現できる『マルサの女2』の感想

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ネタバレ含みますのでご注意ください。

本作は大ヒットした『マルサの女』の続編にあたります。

儲けた金額を宗教法人を立ち上げ隠れ蓑とし、脱税を企て私腹を肥やしている鬼沢に対して、宗教活動以外での収入には税金がかかると主張する、国税局査察部・板倉亮子が戦いを挑む。

前作とと同じく、体を張って、不正を暴こうとする決死の覚悟の亮子。

また前作の権藤に引けを取らない、掴みどころのない鬼沢とのやり取りは凄まじい。

鬼沢は例え如何なる手段を使ってでも、頑なにお金を守ろうとする、狂気がかった人物。

最後の終わりかたが決着つかずになっているところがとても現実的で胸に突き刺さったが、前作同様スリリングな作品です。

バブル景気に浮かれていた頃の日本。

ただ一辺倒な正義にとどまらず、様々な視点での人の意見、憎悪が滲み出ています。

いかにして、お金が人の心を動かすのかが、克明に描かれているのでとてもリアルです。
そんな『マルサの女2』のあらすじと感想をご紹介します。

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あらすじ

地上げ屋同士による激しい競争が繰り広げられていたバブル全盛期の東京が舞台。

地上げ屋の死体が東京湾に浮かび発見される。

殺害された地上げ屋は、都心の再開発計画に絡む地上げ関与しており、裏で糸を引いているのが代議士の漆原(中村竹弥)や銀行頭取といった政財界の大物たち。

漆原は腹心である代議士の猿渡(小松方正)に、代わりとなる地上げ屋を手配させる。

彼らからしたら地上げ屋は、ただの捨て駒に過ぎなかった。

猿渡は、地上げ屋の鬼沢(三國連太郎)に地上げの引継ぎを依頼する。

鬼沢はソープランド、ラブホテル、パチンコ屋などを経営し、脱税のために「天の道」という宗教法人を立ち上げ、妻のキヌ(加藤治子)を教祖に仕立て上げ、信者からのお布施で私腹を肥やしていた。

鬼沢は部下の猫田(上田耕一)を使って、再開発予定地に隣接するプレハブ小屋にヤクザを集め、その中のチビ政(不破万作)を社長にして会社を立ち上げる。

この会社には、銀行から200億の融資がされる段取りとなっていた。

その模様を、マルサこと国税局査察部板倉亮子(宮本信子)は、鬼沢の内偵調査をしている。

鬼沢は1軒立ち退かせるたびに1千万円の報酬を出すとチビ政に公言する。

立ち退きを拒否している住民たちに対し、チビ政たちの執拗な嫌がらせが始まる。

報道カメラマンである清田は、マスコミを利用して鬼沢に対抗しようと目論むが、鬼沢には太刀打ちできなかった。

鬼沢は借金で担保の代りとして、父親に身売りされた奈々を愛人として迎える。

亮子に三島(益岡徹)という東大法学部出身の部下がつく。亮子は三島と一緒に、鬼沢の内偵調査を進める。

そこでかつて税務署時代の後輩が、教団施設へ入るのを目にして、亮子は一緒に中に入る。

亮子はキヌが購入したとされる高価な服が目に留まる。

「宗教法人の収益に税金はかからないが、宗教活動以外での所得は課税対象となる」とキヌ盾つくが、そこへ、猫田が引き連れてきた信者たちによって、外へ追い出されてしまう。

マルサが税務署と同行して教団施設へ入るという行為は許されないことなので、亮子は花村(津川雅彦)に厳しく怒られる。

罰ということで少しの間チームから干されるが、亮子はめげなかった。

最後まで立ち退きを突っぱねていた大学教授の米田(南原宏治)は、鬼沢にとんでもない金額を要求してきた。

鬼沢は渋々要求に応じるフリをして米田を銀座のクラブへ誘い出し、自分に思うがままの繁子(柴田美保子)に美人局をさせる。

米田は鬼沢の罠にまんまとはまり、写真を撮られてしまい脅される。これにより米田の立ち退きが成立した。

鬼沢は立ち退きに苦労をしている日の出食堂に猫田たちと同行し、チビ政の非礼を詫びて、けじめを取らしたと言って、手首を見せる。

これはホラー映画に使う偽物だが、夫婦は恐怖の余り、ようやく立ち退きを決意する。

立ち退きに際して9億円の報酬を貰った鬼沢は、チビ政の会社に入金する

それによって、漆原は3億円、猿渡は3千万円を受け取る。

キヌは奈々の存在を嫌っていて、衝動買いをすることでストレスを解消していた。

たった一人で鬼沢の張り込みをし続ける亮子の姿に心を動かされた三島は、亮子に協力を名乗り出る。

三島は亮子からの申し入れで、鬼沢が経営しているソープに客として潜入し、ソープ嬢から情報を聞き出すことに成功。

店の売上金を運ぶ女を亮子と三島は尾行し、鬼沢の事務所を見つける。

それから宗教法人の申請書類に不備が見つかり、これでようやくガサ入れするための糸口が見えてくる。

亮子はより一層調査を決定づけるために、夫からDVを受けて逃げてきた主婦を偽って、教団施設に潜り込む。

そのこともあって、大きな祭壇の向こうに隠されていた階段が存在することを突き止める。

そしてようやく鬼沢の脱税を暴く、ガサ入れが実行行される。

教団施設やチビ政の会社、及び繁子のマンションに至るまで鬼沢が関係しているところは、一斉に査察官が入った。

祭壇に隠されたいた階段も亮子によって発見され、部屋の金庫から多くの書類が押収される。

鬼沢は計画的に脱税をしており用意周到である。

鬼沢は取り調べに対しても、のらりくらりと交わし、花村たちも手こずる。

家に帰った鬼沢は、猫田から隠し部屋から書類が押収されたことを聞き、直ちに取り返すように激しく怒り狂う。

猫田は部下のサダオ(きたろう)に押収した書類がある国税局の地下倉庫に潜入させる。

サダオは潜入に成功し、書類の中から手帳を取り出して出ようとするが、中から扉を開けるには暗証番号がわからないと外に出れないことから倉庫に閉じ込められる。

次の日、書類を取りに来た亮子は、倉庫でサダオに出くわす。

亮子は命を懸けてサダオの逃亡を制し、手帳を取り戻す。

盗もうとした2冊の手帳のうち1冊は鬼沢の日記で、もう1冊には数字羅列が並んでいるだけだった。

三島が羅列された数字の意味を解読し、この部分が政治家に渡した闇献金の記録であることが判明した。

花村は猿渡を呼び出して、言葉巧みに猿渡を扇動し、3千万円受け取ったことを認めてしまう。

漆原は猿渡の失態に激怒する。

そして、このことが公にならない様、トカゲのシッポ切りが始まった。

まず、チビ政が、若いチンピラに射殺され、続いて国税局で取り調べを受けていた鬼沢が、殺し屋によって狙撃される。

狙撃しようとしたその時、向かいのビルから光が反射して、殺し屋の存在に気づいた亮子が、鬼沢を助ける。

自分も単なる捨て駒にすぎないことを思い知り、鬼沢は言葉を失くす。

猫田も何者かによって殺害され、死体となって発見される。

鬼沢が地上げした土地は、再開発に向けて地鎮祭が行なわれていた。

今回の事件の黒幕である漆原たちの様子を見ていた亮子は、口惜しさをにじませる。

バブル景気のダークサイドをリアルに描いている

本作はバブル景気におけるダークサイドを地上げ屋と新興宗教を絡めて描かれており、80年代の雰囲気がむんむんと漂ってくる。

現在では到底想定外の金額が都心の小さな土地をめぐって、競い合い、政治家及びその筋の人が金に群がってまとわりつく世界は、多少の誇張はあるとしても、当時の雰囲気をよく表していると思う。

脱税を暴こうとする宮本信子他マルサのメンバーたちのキレが前作に比べると勢いが感じないのは、バブルという時代の波に立ち向かいながら苦しんでいたからも知れない。

それ故に、最後も歯切れの悪い終わりかたになっている。

当時の地上げは、間違いなく銀行と一緒になって共謀したものだ。

『マルサの女』も銀行が出てくるけど、本作はそれ以上に重要な役割をしている。

外見は紳士的で温厚に見える頭取も実は主犯。

銀行の頭取と立ち退きを拒む写真週刊誌のカメラマンとのやり取りと、ラストのビル建設に際し地鎮祭での銀行員同士のなにげない会話がとても印象的。

地上げ屋や政治家は、共に危ない橋を渡り、体を張って金を手にしているが、銀行だけは合法的にそれでいて一番儲けている。

そうであっても、今バブルの終りを見届けた私たちは、この時代に恩恵を受けたバブル紳士たちの哀れな結末を迎えたことを知っている。

バブルの波を無事生き延びることができた人はほんの少しではないかと思う。

伊丹監督の凄さがわかります

前作『マルサの女』でヒットを果たした伊丹監督が放つ第2弾が本作。

ほとんどの場合、シリーズと化した場合、前作を超える事はおおむね難しいとされているけど、本作は、役にのめり込んで鬼気迫る演技で有名な三國連太郎をメインに据え作品の武器にした。

『マルサの女』は作品全体がある程度控えめにしていたが、今回は三國連太郎の怪演が作品のパワーを最大限にし、前作と遜色のないレベルになっている。

言うまでもなく、新興宗教の脱税というグレーな題材を中心にしたストーリーの完成度は高い。

それを単にストーリーをなぞるような展開でははなく、鬼沢鉄平の抱えている内面を浮かび上がらせながら、一筋縄ではいかないしたたかさを強調している。

本作は権力を握って私腹を肥やしている支配層に手も足もですただ傍観者として見ているだけの虚しさでラストを迎える事が象徴的だが、それと対比して鬼沢の人生観を表現しているところが秀逸。

最初観たのが20代だったことから、鬼沢が純金で造った墓石の意味が理解できなかった。しかし、40代を迎えた今なら、鬼沢の気持ちがよくわかる。

彼にとって、お金とは、この世における為のものではなくて、自分が死んでも、魂となってずっと自分を支えてくれるものだということを表現しているのかな。

伊丹監督作品の中で、この『マルサの女』シリーズのドロドロとしたごった煮のような感覚が一番好きですね。

扱っているテーマが、人間の欲望と金という誰もが持っている部分を鋭くえぐっているところが他のエンタメ系の作品よりバランスが取れていて面白く感じるからかな。

ラストのやり切れない終わりかたもどこかブラックユーモアが込められていて、深く要因に残るものがある。

でも、そのセンスがいいんだいいんですよね。

とにかく、凄い映画です。
伊丹監督の最高傑作はまさしくこれだと思う。

強欲な爺さんを三國連太郎が好演

宗教法人を作ってやりたい放題の、強欲な爺さんを三國連太郎が好演。

若い女にメロメロになってしまったり、どこか憎めない。

老人のエッチ度が、余りにもストレート過ぎるので、子供に見せられない位エグイ。

政治家、愛人、信者、部下たちといったそれぞれの立ち位置によって、コロコロと人格を装う古狸ぶりがそのどれもが生きていくためのしたたかな計算によるものだと思われてくる。

マルサに対して、地上げの正当性を力説して逆切れしたシーンはさすがの貫禄。生々しくて、胡散臭さが最高。

まさに怪演ですね。

面白い持ち味の場面がいたるところに見え隠れしているので、今観ると後の『釣りバカ日記』の前哨戦のような感じがする。

まとめ

パート1がヒットして評価も高かったことから、やっぱり比較してしまうけど、同じ『マルサの女』でもかなり雰囲気が違う。

パート1がシリアスな問題をエンタメ要素で上手く仕上げた傑作だったことに対して、本作では制作された当時がバブル全盛期とあって、それに絡む経済的な問題として、地上げという問題を扱い、それとグレーな新興宗教をからめて描く。

その為、日本人にとって宗教なると、何となく怪しげなイメージが先行してしまい、爽快感も減少してしまう。

そのことから、観る側の好みも別れるのかな。

私としては、パート1の脱税を正面切って上手くまとめた雰囲気もいいが、本作はまた違った感じの作品だし、独自の良さがある。

比べて観るというよりかは、別々の作品と捉えた方がわかりやすいかも知れない。

ストーリー自体は、テーマがテーマだけに、かなり際どいブラックユーモアが満載で、きちんとエンターテイメント化はされ、愚かで滑稽な人間模様が次々に出てくるのが楽しい。

そして、本作は伊丹監督だからこそできた作品だといえる。

ただ、ただ、作品のパワーに圧倒されます。
必見です。

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