はじめまして。管理人の名越三郎太です。
英語に関するプロフィールをご紹介いたします。
自分を信じぬく
大学四年生の夏でした。
留学から帰国すると間もなく大学から呼び出され、事務室に出向くと就職活動について聞かれました。
「外務省の試験を受けるつもりだ」と答えました。
「いるんだよねえ、留学から帰ってきた勢いでそういうこと言っちゃう学生」
冷ややかな事務員の反応に、だからなんなんだろうと思いながら大学を去り、さっさと公務員試験の予備校の手続きに行きました。
それから次の夏まで外務省試験の勉強を続けました。
未知の科目の方が多い試験でした。今考えれば無謀なことだったとも思えます。
ただ当時の自分は不合格になることなど考えず勉強しました。
それが勇気と呼べるものかどうか分かりません。
ただ、それこそが合格に必要だったことだと確信しています。
私の大学から外務省に入ったのは初めてのケースになったそうです。
以前呼び出された事務員から後輩に話をしてやってほしいとの依頼を受けた際には複雑な心境になりました。
走り抜けた東京一年目
翌年、入省した私の最初の一年の生活は壮絶なものでした。
公務員とは夕方には帰宅する人種であるという田舎者の思い込みは、同僚から同情を込めた笑いを誘いました。
誰よりも早く出勤し、終電ギリギリまで働かされました。
その代わり、若かった私は僅かな私生活の時間を全力で遊ぶことに使いました。
毎週金曜の終電で一度帰宅するなり着替えてクラブに向かうと、朝までナンパしてはその成果を友人と競い笑い合いながら帰りました。
そうして20代前半の貴重な一年を、激務と数多くの出会いに費やしました。
解き放たれる
過酷な労働環境から解放された反動は大きく、実務研修の後の2年の海外研修では更に楽しむことに貪欲でした。
海外研修とは、海外の大学に通うというもので、私はフランス語を専攻していたので、フランスで二年過ごしました。
私は学生時代にフランスでの留学生活での苦労を乗り越えた成果もあってか、あるいは社会人になってからの一年程度で成長したためか、さほど辛くはありませんでした。
むしろ、人生で最高の時期のうちの一つだったと思っています。
研修地を去るときに私のためのお別れパーティーには多くの友人が集まってくれました。
窮地へ
海外研修を終えると、今度はそれぞれ赴任する国にある日本大使館で実務に就きます。
私はアフリカの国での勤務を命じられました。フランス語圏のアフリカの国でした。
ここで海外研修中の夢のような生活は終了し、再び過酷な日々が始まります。
二年間の海外研修で緩みきった若手省員を迎えたのは、組織の全ての業務の下請けと責任を負わされる職務環境、「夏か、熱い夏か」しかない季節、車でしか移動できない劣悪な治安など、全てが同時に降りかかってきます。
前任者は赴任当初の3か月で6キロ痩せたという意味を早々に味わいました。
アフリカ生活当初で特に辛かったのは、友達がいないことでした。
職場の憂さも一緒に愚痴を言える相手がいれば多少は気が楽になったはずです。
日本に、ヨーロッパに、とにかく友人のもとへ帰りたい、ただそう願う日々でした。
チャンスと失望
そんなある日、私はイギリスの若手大使館員と知り合いました。
そのイギリス人によれば、若手の外交官がよく集まってパーティーを開いているとのことでした。その社交の場に行ってみると、アメリカ、イギリス、ドイツ、オランダなどの外交官、国際機関職員、NGO関係者がいました。
「ここに賭けるしかない。」ただ問題は、その国はフランス語圏であったのですが、そのコミュニティーでは英語が話されていたということです。
私はフランスでの生活経験すらあれ、英語を実際に使ったことがありませんでした。
それでも高校時代英語の成績は優秀だったのだと思い飛び込んでいったものの、英語が出てきません。口から出ないどころか頭の中で英語が機能しません。
しまいにコミュニティーの人達は、「英語よりフランス語が得意なアジア人」として最初は物珍しさからか話しますが、すぐに英語を話す仲間とのおしゃべりに戻っていきました。
食い下がる
友達をつくってアフリカ生活が明るくなるどころか、改めて孤独を確認しました。
しかし当時の私には多くの選択肢はありませんでした。
英語を話せるようになってコミュニティーの一員として認められるか、孤独を自分の居場所とするのか。前者を採りました。
30歳を迎えたとはいえまだまだ若かったと思います。
「俺だって東京で毎週ナンパしてたんだよ。無視されたら怖い、失敗したら恥ずかしいなんて軟な根性していない!」遊びも役に立つものですね。
もちろん、それも全力で遊んだからこそだと思っています。
数えきれないくらいの悔しい思いをしました。
相手がフランス語で話してくるのは、自分の英語が否定されているということです。
いつからでしょう。どれくらい経ってからでしょう。
コミュニティーの一員、そのうち中心メンバーとしての地位まで得ていました。
恩人と友人と女性達、そしてDVD
この過程には重要な人物がいます。
ボブというイギリス人で、まったくフランス語を話しません。
ボブは、頑固な性格の持ち主である一方で、私のたどたどしい英語を忍耐強く聞いてくれたり、分かりやすく話してくれました。
また、集まりがある度に誘ってくれましたし、コミュニティーの中で私が楽しめるように配慮してくれます。
クリスもいました。アメリカ人です。彼もフランス語はほとんど話せません。
クリスは、物静かでありつつも社交的で、思慮深く、教養を感じさせます。
私より後にコミュニティーに入ってきたはずでしたが、いつの間にか親しくなっていました。ボブのおかげもあり、クリスと出会った頃には幾分か私の英語が成長していたこともあるかもしれません。
それから数人かの女性。小さなコミュニティーでしたが、メンバーの出入りが頻繁にあり、一度溶け込むと出会いには事欠かなくなりました。
フランスで買ったアメリカのテレビドラマ「フレンズ」のDVDは多いに役立ちました。英語字幕を見ながら英語とともに西洋人の笑いの感覚を学びました。
自分の居場所をつくる
寂しくて仕方がなかった日々が変わったのはいつからでしょう。
毎週末だけでは飽き足りず、二日として空けずに誰かしらの友人と会って、ビリヤードに興じるようになっていました。コミュニティーに入ってきた外国人にも気を使える余裕も出てきました。
アフリカでは外国人の間で、過酷な環境をともに生き抜くために支え合うための結束力があったことは事実です。
しかし、そこに飛び込む勇気、うまく英語が話せなくても挑み続ける忍耐がなければ、私はアフリカでの任期を全うできたかどうかも分かりません。
若かったことも大いに助けになったのかもしれません。
当時の様々な要素が、その国での生活を楽しむことを可能にしたのでしょう。
ちなみに私の後任者は、半年も経たずに帰国してしまったそうです。